ロックアクション講演会「関東大震災朝鮮人虐殺といま」文字起こし③ 西崎雅夫さん(後半)

「戦争あかん!ロックアクション」のブログより引用
http://himitsulock.hatenablog.com/entry/2017/12/03/160906



戦争あかん!ロックアクション講演会(2017.11.06)
「関東大震災朝鮮人虐殺といま」
~あの日、あの空の下、東京で何が起きていたのか?~

講演 西崎雅夫さん(後半)
(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会・一般社団法人ほうせんか)

前半はこちら → http://madameeiffel.blog2.fc2.com/blog-entry-241.html

 これは青山学院の様子です。郡司浩平さんがこう言っています。青山学院の寄宿舎に郡司さんがいたのです。
「そこに朝鮮人が1人来て、『助けてくれ』と言うのです。で、キリスト教の学校で非道な目に遭っている人を助けるのは当然のことと考えた。外部の者を泊めるのは、学院長の許可が要るので、学院長に相談した。すると賛成してくれた。その日から子どもを含めた7~80人に及ぶ朝鮮人が、難を逃れて青山学院校内の寄宿舎に暮らすことになったのである。」
 
 これは助けてくれた人の話です。こういうキリスト教徒、宗教家の人やいろんな人がけっこう朝鮮人を助けてます。でも、助からなかった人も多く、次は佐久間町の話です。そこだけ一角だけちょうど焼け残ったのです。そこで起きたことです。
 小林勇が岩波茂雄といっしょに居た時の話なんですが、
「佐久間町の狭い一角が残っていた。川岸に近いところに電車が一輌残っている。2人は中へ入って一休みした。中には一人の男がいて私たちは問答をした。
『えらいことでしたね』
『まったくえらいことですね』
『ここらも大分朝鮮人騒ぎをしていますね』
『ええ、もうひどいですよ。ようやく焼け残った所を放火されたのではやり切れませんからね』
『実際朝鮮人は放火したのでしょうか』
『ええもうひどい奴らですよ。どしどし殺してしまうのですね』
『殺したりするのですか』
『昨夜もこの河岸で十人ほどの朝鮮人をしばって並べて置いて槌でなぐり殺したんですよ。』
『その屍体は?』
『川の中や、焼けている中へ捨てました』
 その後道端に、蜂の巣のようにつつかれた屍体を見た。そして私はノートに書いている。
『今度の惨害で一等不幸の目にあったのは朝鮮の人々にちがいない。彼らも同じ人間で同じ地震にあい、同じ恐怖にさらされた。そのうえ生き残った人々に殺されるかも分からないとはなんということだ』」

 また、古川という小さな川の話です。川岸で働いていた14歳の後藤さんの証言です。
「2日の夜、10時過ぎ馬車屋に夫婦で雇われていた私の知り合いの朝鮮人の奥さんの方が、近くの雑木林の中で凌辱を加えられ虐殺されたということを聞いて知っています。私と一緒に警備していた人間に、お前の知っているかみさんがあそこでやられているから見てこいといわれ、とても行く気になれなかったのが当時の私の実感でした。」

 六本木の島屋さんの話。
「警察のつい側までくると大変な人だかりである。やっつけろ、殺してしまえと罵っている。見ると一人の巡査が手を振り振り多くの人々を制止している。すると群衆の中の一人が懐中電灯を取り出して包囲されている者の顔を照らした。こやつこそ本物の不逞漢だ、やっつけろと叫んだ。巡査は必死に制している。グサッと音がしたかと思うとたちまち不逞漢と称される者の臍の上と思うところに、竹槍の穂先が現れた。ばったり倒れると群衆は散ってしまった。誰かが背後から突き刺したものと見える」

 これ、明治時代の写真ですけど品川警察署です。当時は田舎の方の警察はこんな感じの板塀です。大井町で働いていた人が、あやうく殺されそうになって近所の品川警察まで囲まれてたどり着いたという証言です。全さんです。
「夜も遅くなって受け持ちの巡査と兵隊2人と近所の日本人15~6名が来て『警察に行こう。そうしなければお前達は殺される』と言いました。私たちは家を釘付けにして品川警察署に向かいました。私たち13人のまわりは近所の人たちが取り囲み前後を兵隊が固めました。大通りに出ると待機していた自警団がワァッーとかん声を上げながら私たちに襲ってきました。近所の人たちは大声で『この連中は悪いことをしていない、善良な人たちだから手を出さないでくれ』と叫び続けました。しかし、彼らの努力も自警団の襲撃から私たちを完全に守ることはできませんでした。長い竹槍で頭を叩かれたり突き刺されたりしました。殺気だった自警団は野獣の群れのように随所で私たちを襲いました。」
 だからこうやって近所の人たちが守ってくれて助かったという例も本当にたくさんある。

 大田区の大森という漁村での話。西川春海さんが聞いた話です。
「3日でしたか4日でしたか、海岸で自警団の人たちが、7~8人団をなして来た朝鮮人を生け捕ってしまったのです。7~8人とかたまっていたので、抵抗もしたでしょう。そのために只でさえ狂気のようになっている人たちは、余計に昂奮したと見えて、全部を針金で船へしばりつけて、それへ石油をかけて、火をつけて沖へ離したのですって、…どんなでしたでしょう。」

 中央区月島3号地。これ、高瀬さんという人が思いだして書いてくれた絵ですが、こんな話です。
「(2日)水を求めて外へ出ると、5~6人の裸の男が針金で縛られて、周りに刀や鉄棒を持った作業着の男数人がこづきながら歩いているのを見えました。やがて石炭の焼け残りの火のところにくると針金でしばられた男の両手足を持って火の中に投げ込み始めました。私は逃げ帰り、母に告げたことを覚えております。同じ日、岸壁に行くと、これも針金でしばられた裸の男10人ぐらいが、次々と海に投げ込まれているのが見えました。」
 きっと、鮮明に覚えているんですよ。だからこういうふうに絵が描けるんですね。後ろ側の丸いのは土管です。そういうのも覚えているんですね。

 これ、日本画家の田中翆璋(たなかすいしょう)が書いた絵なんですけど、交番があって、その前に朝鮮人が縛られて座らされているという場面なんですけど、女優の清川虹子がこんな様子を見ています。
「朝鮮人を1人つかまえたといって音楽学校のすぐそばにあった交番のあたりで、男たちは、手に手に棒きれをつかんで、その朝鮮の男を叩き殺したのです。私はわけがわからないうえ恐怖でふるえながら、それを見ていました。小柄なその朝鮮人はすぐにぐったりしました。」

 これ、浅草の写真です。震災の時の火事でほとんど焼けてしまいました。その浅草公園での話。山本さんの証言。
「上野方面から朝鮮人が向かっているから注意せよとの情報が自警団にくる。公園内に入る者は片っ端から調べ、朝鮮人らしき者にはザジズゼゾといわせる。怪しいと思うものは、交番裏の空き家へ押し込む。翌2日になって警官が取り調べの上釈放するが、自警団が承知しない。2~3人でこの釈放された男を鉄棒でなぐる。頃を見て針金でしばり、まだ焼け残っている火の中へほうり込む。これを繰り返し繰り返しするのである。無残な殺し方をしたものである。」
 火災があった所では結構焼き殺すということが行われています。

 北区の赤羽土手での話。松崎さんの証言。
「うすぐらい土手の桜並木に朝鮮の人が1本の桜の木に1人ずつ縛りつけられているではありませんか。そのまわりを兵隊がサーベルをガチャつかせながら、『今夜こいつらをぶった切るんだ』といきまいていました。私は恐ろしくてみないようにして通りましたが、その人たちはもう声も出ず、時どき足をバタバタさせるぐらいです。むごいことです。恐ろしいことです。」

 これも赤羽土手での話。藤沼さんの証言です。
「私の妻の妹は赤羽で朝鮮人の夫婦者2家族を同居させており、その人たちはどこにも行かず家にいたが、3日ごろ憲兵と制服の巡査が来て連れ出したので、後を見送っていると、赤羽の土堤の上に4人を立たせ、憲兵がドスで4人の首を切り落とし川の中へ突き落した。」

 地震のときの様子、荒川区の三河島という所です。火災はここはなかったはずなんですけど、江崎さんの証言です。
「その翌日、今度はその朝鮮人を虐殺した。すごかったですよ。見たけれどかわいそうでしたねえ。これは今でもね、大震災の経験者でもこういうことはあまり言わねえですが、事実です。それで自警団をこしらえて、その当時刀剣類は自由に所持していまして、今みたいにやかましくない。それで、まっこうから斬ったかというとそうじゃない。後ろからです。人間というのはそういうもんです。人間はやっぱり慈悲というのがありますから。思ってみりゃ関係のない人を斬るわけですから。戦争じゃねえんですから。ただ、憎しみをもっていてね。あのデマはどこからどういうふうに広がったのか。」

 同じようにこれ、近くの南千住という所ですけど、家が結構崩れているんです。原田さんという当時中学1年生の人の目撃談。
「南千住警察署の裏庭に朝鮮人が後ろ手にしばられて30人ほどおりました。私は恐る恐る板塀の穴からのぞき見ました。何人かの朝鮮人が目隠しをされて次々と銃で撃ち殺されたのを見ました。大きなわめき声も覚えております。」

 葛飾区の奥戸中学校、郷土クラブが聞いた話。
「奥戸橋で5,6人つかまえて橋の番小屋の所へつなつけて入れといたんだよ。青年会役員で朝鮮人をつかまえて、みんな入れてしまう。朝になって戒厳令がしかれたら、朝鮮人を橋の上で殺してしまう。剣付きでね。誰が殺すかというと国府台の兵隊さん。まあ新兵だな。上等兵がいっしょに来て、やりで橋の上からみんな突き落として。ヘイヘイヘェ~、ズブリズブリね。それもまあ見てた。」「川に落ちた体は血をふき出し、その流れ出た血は川の中を尾を引いて流れていきました。50メートルも行くと死体はしずんでいくのでした。」

 もう、皆さん嫌になってますよねえ?でも、ごめんなさい。まだ行きます。だって、事件が実際に起きているから。

 四ツ木橋です。軍隊が殺したって言う死体を見た絵を篠塚さんていう人が書いてくれました。橋があってその向こうに死体があった。ここでの証言、リアルなんですけど当時6歳だった水野さんの証言です。この人は浅草で被災して家が焼けたのでお父さんと生まれたばかりの妹とお母さんと4人で、四ツ木橋にたどり着いて、橋げたのところに蚊帳をつって寝てるんです。お父さんはどこか行ってしまうんですけど。その時の話です。
「阿鼻叫喚がいくらかおさまったと思われた時、母がマッチをすった。マッチを上下左右させた。押し殺したギャッという叫びが母の口を辛くもついて出た。《血よ、血よ》。私の目はパチッと開いた。母はもう一本、もう一本とマッチをつけた。橋上から滴り落ちる液体が蚊帳を伝わる。赤褐色。血だ。私には、阿鼻叫喚のなかに《アイゴ―》《哀号》と泣き叫ぶ声がまじっていようなど、聞き分ける分別などあろうはずもなかった。やがて蒲団の上の白い毛布に、はっきりその血痕が印されている。私はただただ震えおののいた。母も私の両手をにぎり、やがて上半身をしっかり抱きしめ、身震いが止まらない。その身震いが、そのまま、私に伝わった。生涯、私が母に暖かくも冷たくも抱かれた記憶は、この時、ただ一度だけである。
 やがてしばらくして父が戻ってきた。《おい、津る、明善はどこだ?》《やった、やったぞ、鮮人めら十数人を血祭りにあげた。不逞鮮人めらアカの奴と一緒になりやがって、まだ、油断ならん。いいか、元気でがんばるんだぞ。》そういうなり向島側に駆け戻って行った。炎を背に父のシルエットが鮮やかだった。四ツ木橋下での恐怖の一夜、非人道そのものといえる一夜をへて、翌朝、渡った四ツ木橋の所々方々に見受けられた血塊が無残であった。」

 生き残った朝鮮人慎昌範さんの証言です。慎昌範さんはこっちの方が安全だと思って京成の線路の鉄橋の方に避難されたんですね。でも向こうから自警団員がやってくるんです。自分たちの仲間15人ぐらいの端っこの人に自警団員が聞くわけです。「お前は日本人か」。聞かれた方の朝鮮人は日本語が分からない。だから朝鮮語で「何て言ってるか分からないから通訳してくれ」と言ったんです。で、その朝鮮語を聞いた自警団員は、その人が朝鮮人だと分かったわけです。だからその人を日本刀で斬り殺して川の中へたたきこんだのです。次々仲間が殺されていくので、危ないと思って慎昌範さんは、川の中へ飛び込むんです。川へ飛び込んで川岸の向こう側の葦の原に隠れこんで、何とか夜をすごしました。やがて明るくなって自警団員に見つかって、陸上に引き上げられるんです。そこまでは覚えているのですが、その後、慎昌範さんは記憶がないのです。気がつくとすぐ近くにあった寺島警察署という所の死体の山の中なんです。たまたま、その寺島警察署に弟が収容されていて、弟はそんなに深い傷じゃなかったので、「どうも死体の山の中から兄貴の声が聞こえる気がする」というので調べてみたら、兄貴がまだ生きていたのですね。それで命だけは助かりましたけど、死んでしまうところでした。体中傷だらけなんです。日本刀で斬られたり、竹槍でつつかれたりしたから。特徴的なのは両足の内側、足首に穴が開いてる。これはトビ口でひっかけて死体として引きずったから、穴が開いているのです。完全に死体だと思われて収容されたのですね。たまたま弟がいっしょに収容されていたから、命だけは助かった。
 生き残った人の話は凄まじいです。

 この写真は「サンデー毎日」の御蔵橋ていう橋、両国の国技館のすぐそばにあったんです。この写真ですが、橋の欄干に御蔵橋と書いてあって、その下に死体がある。よく見ると、この死体は縛られてるんです。で、そこでの話です。成瀬さんという人がこう書いてます。「5日の日であった。『朝鮮人が来た』というので早速飛び出して見れば、5~6人の朝鮮人が後ろ手に針金にて縛られて、御蔵橋の所につれ来たりて、木に繋ぎて、種々のことを聞けども少しも話さず、下向きいるので、通り掛かりの者どもが我も我もと押し寄せ来たりて、「親の敵、子どもの敵」等と言いて、持ちいる金棒にて所かまわず打ち下ろすので、頭、手、足砕け、四方に鮮血し、何時しか死して行く。死せし者は隅田川にと投げ込む。その物凄さ如何ばかり。」

 同じ場所で篠原さんという人が、焼き殺す状態を見ています。
「私の考えでは、薪か何かで相当ぶたれ、いためつけられていてもう半殺しになっていました。テントの中では、『パピプぺポと言え』とか、何か調べていたらしいです。その半殺しの人を川べりに無理やり引きずってくるんです。その人たちは抵抗するんですけど、もう抵抗する力もなくて、薪でおこした火の上に4人か5人の男の人が、朝鮮人の手と足とが大の字になるように、動かないように持って下から燃やしているんですよ。火あぶりですよね。焼かれると皮膚が茶褐色になるんです。だから焼かれている朝鮮人は悲鳴をあげるんですが、もう弱っている悲鳴でした。そして殺した朝鮮の人々が次々に川に放り込まれているのです。私は終わりまで見ませんでしたが、知り合いのおじさんが全部見ていたら13人とか14人とかその場で殺したのを見たって、母にいったらしいですよ。」

 そのすぐそばに安田邸という所があって、湊さんの証言。
「川に面した西門と横川の南門とがそのままに保たれていた。その南門のところに、5~6人の鮮人が、例のごとく針金で結わえ付けられ、石油をぶっかけて火をつけられている。生きながらの梵殺だ。現実に見たのはこのときが初めてだ。人数も5~6と書いたが、勘定しているゆとりなどない。それにこの人たちは半死半生の態で気力を失っていたのか、それとも覚悟していたのか、隅田川に投げ込まれた人々のように一言の叫びもしなかった。ただ顔をそむけて去る私の背後にウウッ!!といううめき声が、来ただけだ。」

 両国の被服廠跡(当時)、この場所だけで38,000人の人が焼け死んでいます。ここでも虐殺事件が起きた。浦辺政雄さんという人の証言です。
「そのわずかの空き地で血だらけの朝鮮人を4人、10人ぐらいの人が針金で縛って連れてきて引き倒しました。で、焼けボックイで押さえつけて、一升瓶の石油、僕は水だと思ったけれど、ぶっかけたと思うと火をつけて、そしたら、本当にもう苦しがって、のたうつのを焼けボックイで押さえつけ、口々に『こいつらがこんなに俺たちの兄弟や親子を殺したのだ』と、目が血走っているのです。」

 証言はまだいっぱいあるのですが、時間との関係で省略します。他にも白髭橋とか、寺島警察署、江東区の羅漢寺、大島とか亀戸警察、いろいろあるんですけど、それはちょっと飛ばさしていただきます。
 いっぱい証言を紹介しましたけど、逆に言うと証言でしか記録されない、分からない事件なんですよ。後半紹介したのは。つまり公的資料に載っていない話なんですよ。この事件は本当に隠されて隠されて、分からないまま来ている。

 事後処理の問題を一点紹介したい。
 遺骨の行方が分からない。私がかかわった墨田区でも警察の方で夜中に掘り起こして、どこかへ持って行ってしまったという所までは分かるんですけど、じゃあどこへ持って行ったのか、ということ…すら分からない。実はよくよく調べてみると、それが当時の日本政府の方針だったんですね。
 これは朝鮮総督府警務局の出した資料なんですけど、こういうふうな5つの方針で朝鮮人の遺骨は処理しましたという話なんです。最後のだけ紹介します。「起訴セラルタル事件ニシテ鮮人ニ被害アルモノハ速ニ其ノ遺骨ヲ不明ノ程度ニ始末スルコト」これが日本政府の方針なんです。つまり遺骨は問題になったケースに関しては「不明の程度」に始末しろってことなんですよ。だから、荒川河川敷でも遺骨は「不明の程度」に始末されてしまったんですよ。今日に至るまで分からないんです。遺骨の行方も、殺された人数も、名前も分からない。

 当時唯一の調査をしたのが独立新聞なんですね。日本政府は当時何人殺されたか調査をしなかった。だって調査をしたら膨大な数になりますよね。数千人殺しているわけだから。当然植民地支配に大きな影響を与えることになる。だからでしょう。徹底的に隠したんです。じゃあ、調査した人はいるのか?当時の朝鮮人留学生たちが唯一調査をしました。実際に関わった人達に話を聞きましたけど、なかなか難しかったと言ってました。つまりどこに行くにも警官がついて来て、日本の村に行って、ここで朝鮮人が殺されたかと調べるんですが、しゃべってくれないし、この調査の費用もどこからも出なかったので、非常に不完全な形で終わってしまって悔しいと話してくれました。それでも、約6,000人の人が殺されたというのは、留学生の人たちの調査で明らかになっている。ただ、実際に死体が発見できた数は半数あまりなんですよ。それ以外は死体すら発見できなかった。だから、6000というのはウソじゃないかという人たちがいるが、当時の状況を考えると、この数が一番事実に近い、少なくとも数千人というのは言えるはずなんです。
 今でも分からないのは、当時の日本政府が隠したからです。その後も日本政府は調査しないので、未だに分からない。

 (私が)何故今もこんなことをやっているのか?関東大震災って94年もまえに起きたんですよね?なぜこんなことを今もやってるかっていう話ですけど、私、何件か頼まれていることがあるんです。4年前にソウルに行った時に、おじいさんの遺骨を探してくれないかと頼まれました。洪東善さんから、たのまれました。そのお爺さんの名前がこれなんですけど、洪ナム裕さんと洪喆裕さん名前が2つあるそうです。ナム裕はおじいさんの本籍です。自分のおじいさんは関東大震災の時東京にいて、留学生だった。おばあさんとは結婚していたが、妊娠していたから韓国にとどまっていた。関東大震災があって、おじいさんはまったく消息が分からない。おばあさんはずうっと待っていたが、結局おばあさんが亡くなるまで、おじいさんの行方は分からない。おばあさんが遺言を残すんです。「骨でいいから探し出して、自分のお墓に入れてほしい」。遺言を受けた洪さんはずっとずっとおじいさんの遺骨を探しているんです。
 たぶん、日本から関係者が行くたびに、私のような者にも頼むんです。「何とかおじいさんの遺骨を探してくれないか」。私も頼まれて、探してはみたんだけど、さっきも言ったように徹底的に日本政府が隠してしまった。公的資料がほとんどないので分からないんですよ。だからこのおじいさんの遺骨を探している、洪東善さんは今も遺骨を探しています。

 去年も別の人から、おじいさんのお兄さんの遺骨を探してほしいと頼まれました。遺族は遺骨を探し続けているんです。おそらく100年経っても探し続けているんです。だって終わりようがないじゃないですか。肉親が殺されたんだから。だから遺族にとっては終わっていない。私たち日本人も終わらせることはできないんじゃないか。このままでは。というのが(理由の)一つ。

 もっと大きいのは、このあと話があると思いますが、今でもヘイトスピーチが行われているということ。今でも街中で「朝鮮人は皆殺しにしろと」いいながらスピーカーで叫んでいる人がいるわけですよ。絵空事ではないのは、94年前に実際に朝鮮人を街中で皆殺しにしているからですよ。知り合いの在日のおばさんが言う。「自分がこんな運動をしているのは自分の子どもや孫が殺されないためだ。何かあったら自分の子や孫が日本人から殺されるかもしれない。未だに日本人社会はそんな社会だ。だから私はやめるわけにはいかないんだ。多くの日本人を味方に付けるほかないんだ。」と言います。これが本当のリアルな話です。

(ヘイトのプラカードの写真)「良い韓国人も悪い韓国人もどちらも殺せ」変なプラカードだと思いませんか?関東大震災のときには自警団の虐殺があまりにひどかったので政府が「何人か朝鮮人が悪いことをしたけれども多くの朝鮮人は順良である。やたらと迫害するんじゃない」と司令が出た。それをさらに悪くして、どちらも殺せっていてるのが90年後のこのプラカードなんです。

 これ横網町にある追悼碑です。今、これが問題になってます。ここで追悼式を毎年行っています。小池都知事、それから今年から墨田区長も追悼文を寄せなくなった。今までずっと寄せてきたのに。去年の8月の段階で、右翼女性グループ「そよ風」というのがいるんですけど、このそよ風が、両国の駅前で追悼碑を撤去せよという街宣をしていました。そのあとから、実際に動きが始まりました。今年3月の段階で、都議会で古賀議員が都知事に対して質問をした。「横網町公園に立つ追悼碑の文章は6000人とかいうでたらめな数字を上げてるし、あんなものがあっていいはずがない。横網町公園の追悼碑は撤去すべきではないか」。これは東京都の公園にあるんですよ。だからその権限は東京都にあるんです。「毎年追悼文を送っているが、そういうのも止めるべきだ」という話を古賀議員がしました。その古賀議員は質問が終わってからも都知事のところに行って、しつこくこの2つを要求したようです。それを受けて今年、小池都知事が追悼文を取りやめてる。
 これは単に文章をやめたって言うだけの話ではないんです。追悼文はずっと、例えば石原慎太郎でさえ送り続けてきたわけです。それは、党派なんて関係ないんですよ。自民党だろうが何だろうが、1973年の追悼碑を作る段階で、あまりに悲惨なことがあったって言うのは皆知っているので、みんなで一致協力して追悼碑を作ったという流れがあります。その流れを今年否定してしまったんですね。私の感覚で言えば小池さんがやっていることは、朝鮮人は殺してもいいんだよという宣言です。だって、かつてそれだけのことがあった場所ですから。

 追悼文の話以外にも、HPに載っていた関東大震災に学べよっていう、内閣府の中央防災会議が出している、つまり政府の公な反省文です。その中で朝鮮人虐殺があった、そんなことは二度と繰り返してはならないという文章があって、それは学者さんがまとめているんですけど、HPに掲載されて誰でも読めるようになっていたんですけど、それが消されて、一時的に読めなくなった。4月の段階です。新聞社が取り上げたらすぐ元に戻したんですけど、そういうこともあって、いろんなことがあって、今、大きな流れでいうと小池都知事が…まあ来年どうなるかなあ。難しいかなあと思ってます。追悼文出せって言っても。でも正しいことを主張していく以外にないですよね。

[まとめ]
 朝鮮人虐殺に関していえば本当に記録がない。ただ、当時目撃した人たちは結構記録を残している。民間の証言をまとめることで当時何があったかということはある程度推測できる。そう思って本を作った。いわば国の記録のなさに対する民衆の記憶の集積だと思ってます。それ以外に今のところ手がないのかなと。
 秘密保護法みたいな変な法律ができたじゃないですか。国家の危ないもの怪しいものを隠す法律ができてしまっていますからね。おそらく都合の悪いところは隠し続けるでしょう。それに対して何ができるか、少なくとも私たちのできることは、人から直接話を聞いて、現場に出かけて行って、人と人がちゃんとつながって、それでネットワークを作っていく。その中で本当のことって必ずわかっていくんだろうなと思ってます。私はいろいろな人とつながりたいから、わざわざ新幹線に乗ってきています。そういう人のネットワークは強い。そこから未来が見えてくるのではないかなと思います。

西崎本チラシ_001小

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