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5/6(日)13時半~日本の外交、これでええの?!孫崎享さんに聞いてみよう!Part3 「激動の情勢の中で、今果たすべき日本の外交」

20180506カラーチラシ小

世界が注目する南北首脳会談が4月27日開催されました。
「朝鮮半島の平和と繁栄、統一に向けた板門店宣言」によって、分断と戦争と冷戦時代の対立と憎悪から、和解と協調へと両国の関係は置き換えられました。

朝鮮半島の和平と非核化は、今後順調に進められていくのでしょうか?
お二人の識者から最新の情報を伺いましょう!



●5月6日(日) 13:30~エルおおさか南館5階ホール(京阪・地下鉄谷町線「天満橋駅」より西へ300m http://www.l-osaka.or.jp/pages/access.html

日本の外交、これでええの?!孫崎享さんに聞いてみよう!Part3
「激動する朝鮮半島!日本がやるべきこと、私たちがやれること」

第一部 講 演
 孫崎享氏 「激動の情勢の中で、今果たすべき日本の外交」
 金光男(キムカンナム)氏 「南北・朝米首脳会談の開催と朝鮮半島の大転換」
ビデオメッセージ 
 安珍傑(アン・ジンゴル)氏(韓国参与連帯)
第二部 徹底討論「情勢を後戻りさせないために」

主催:戦争あかん!ロックアクション 
   日朝日韓連帯大阪連絡会議(ヨンデネット大阪)
協力・賛同 大阪平和人権センター
      しないさせない戦争協力関西ネットワーク
      東アジア青年交流プロジェクト




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ロックアクション講演会「関東大震災朝鮮人虐殺といま」文字起こし④ 文公輝さん

「戦争あかん!ロックアクション」のブログより引用
http://himitsulock.hatenablog.com/entry/2017/12/03/163404



戦争あかん!ロックアクション講演会(2017.11.06)
「関東大震災朝鮮人虐殺といま」
~あの日、あの空の下、東京で何が起きていたのか?~

「ヘイトスピーチについて」 文公輝(ムンゴンフィ)さん
(NPO法人多民族共生人権教育センター)

 関東大震災の歴史をなかったことにしたいという動きとヘイトスピーチがどうつながるのか。少し補足をしたいと思います。関東大震災の歴史をなかったことにしたい動きとヘイトスピーチの動きがどう繋がるのかという話です。
 いわゆるヘイトスピーチとわれわれが認識するようなデモや街頭宣伝と言った形での不当な差別的言動、この10年間ぐらいの間ほぼ野放し。ようやく昨年1月ヘイトスピーチ条例という形で大阪市が対処しようという動きを作った。6月の段階で国がヘイトスピーチ解消法、国民の努力によってヘイトスピーチを解消しようという法律を作った。
 約10年間の間、ヘイトスピーチが野放しにされる中で誰がヘイトスピーチの活動の担い手であったのか?担い手の多くは先ほど名前が出ていた「そよ風」とか歴史修正主義の活動と極めて重複するメンバーが行い続けてきた。そこにヘイトスピーチが社会に公然と差別的言動を振りまく行為の理由というか背景があると思う。関東においては関東大震災における朝鮮人虐殺、あるいは日本社会全体において日本軍「慰安婦」の問題であるとか戦時下の動員計画によって動員された朝鮮人、いわゆる強制連行、強制労働で被害を受けた朝鮮人の問題、朝鮮半島を植民地とし日本が統治した時代に、日本がそこで行った加害の行為、そういった誰が見ても誰が聞いても否定できない歴史の現実、これは今日、西崎さんが行われたように市民運動でも発掘、調査、記録がされてきました。歴史研究者の中でも、おおむね論争は決着したはずのこと。有ったなかったのレベルはとっくに決着がついていること。その事実にケチをつけたいわけですね。その中でヘイトスピーチは利用されてきた。すなわち関東大震災のなかで言われている朝鮮人はウソつき集団、嘘つき民族と彼らは攻撃する。

 ヘイトスピーチは人間の尊厳にたいする攻撃である。ヘイトスピーチをする人間は朝鮮人、中国人のことを同じ人間として認めない。それを象徴するヘイトスピーチが「ごきぶり、蛆虫、朝鮮人」、2009年に京都初級学校を襲った在特会は朝鮮学校の正門の前でこういうことを言っている。「約束というのは同じ人間同士がするもの」。朝鮮人は人間じゃないから約束なんかできない。彼らが考えている日本の進路を邪魔する過去の日本が行った加害の歴史をなかったことにするために、それを主張している朝鮮人、韓国人は人間以下、それを支援する日本人は反日であると。否定しようがない歴史的事実を否定するために民族差別、人種差別を利用してきた。過去10年間ヘイトスピーチがこの社会で果たしてきた「役割」であったのではないか。これが西崎さんの話とこの後の話をつなぐ一つ目の視点。

 二つ目の視点は、10年間野放しにしてきた。20年30年前は「良い朝鮮人も悪い朝鮮人も殺せ」どころか「朝鮮人帰れ」と公然と言おうものなら、差別的言動を行った人間というのは社会的な批判の目にさらされていくわけです。許されない行為であるという共通認識があった。それが今や路上で、インターネットで公然となされるようになってきた。差別的な特定の民族に対する蔑視、憎悪、敵意を表明することを公然と行っても一定許されるような時代に私たちは生きている。あのアメリカでさえ露骨に人種差別を行った人物は社会的地位を追われるような厳しい社会的制裁がこれまで課されてきた。今年に入っただけでもハーバード大学に入学を許可された10名の新入生がフェイスブックを使って人種差別的な投稿を行ってきたということが、入学決定後に明らかになって、入学を取り消された。また、ある自動車レースで日本人レーサーが優勝したときに「日本人が優勝するのは許せない」と書いた記者は、そのことが理由となって解雇された。

 ところが日本では在日コリアンにたいする差別的な考え、見下し、偏見といったことを表明した地方自治体の首長、党首、政治家、文化人になんの咎めもない。公然と特定の民族にかかわる差別的な考えを表明してもほぼお咎めがない。そういう社会にしてしまった。その先はどこに?まさに94年前にもう一度向かうかどうかという瀬戸際にきているのではないか。

 なぜこういう活動をするのか?殺されないためです。94年前にもどらないために、ヘイトスピーチは許されない行為であるということをしっかりと共通認識としてこの社会に広めていく、具体的にそれができるのが法律であり、条例です。だからわれわれは大阪の鶴橋でヘイトスピーチが繰り返されてきた中から、大阪市に対して条例をつくって、ヘイトスピーチを止めてくれと要求し続けた。大阪市(当時橋下市長)がこの条例を作った背景には生野区という地で日本人住民のヘイトスピーチ何とかしてくれという声があったことが大きい。また、そのように世論を作っていった。

 在日コリアンの我々だけが条例をつくれと言っても無視される。どうすれば大阪市が動くのか。どうすれば生野区が動いて大阪市に対してこの条例が必要だと動くのか、そのためには日本人の皆さんが動いていただかなくてはいけない。連合自治会、商店会、社会福祉協議会、PTAなどに呼びかけ、そのような皆さんが生野区そして大阪市にたいしてヘイトスピーチをなくすために、行政として取り組んでほしいという声を上げるという世論を作り上げた。その結果として大阪市ヘイトスピーチ対処条例、国がヘイトスピーチ解消法をつくる半年も前に独自の条例をつくるという動きにつながっていった。

 大阪市の条例は、個人の人権を侵害し、差別の意識を生じさせると言ってます。ヘイトスピーチのもう一つの機能なんですね。ヘイトスピーチは差別を扇動する行為であるし、そのような行為をすることは社会的害悪なんですよということを大阪市は条例のなかで表明しているわけです。ここまで明確にヘイトスピーチは許されないことであると明言した自治体は大阪市が初めてなんです。たったこれだけのことでも条例を作らなければ言えなかったんですね。その立場を表明するんだといったことがこの条例の画期的な部分。

 よく言われますけども、公権力がそういった表現の自由に不当に介入する、これは危険なことではないのかというような、行政によるヘイトスピーチ条例、あるいは法に対して問題にする方、けっこうおられます。実は我々運動を進めていく中で、誰からそれを一番言われたかというと、弁護士の方です。あるいは学者の方です。平気で言われました。そんな法律で規制なんかしなくていいじゃないのと。だいたいヘイトスピーチというのは、個人を特定して誹謗中傷を行うのではないから、被害もそんなに重くないんじゃないの?ということを実際言われるんですね。そうではないでしょ。というのが我々の受けてきた実感です。

 生野区内でヘイトスピーチが繰り返されるなかで、在日コリアン1世、2世の高齢者の方が、こういう相談に来られました。介護保険を使ってヘルパーに来てほしいと。なぜヘイトスピーチと介護保険が繋がるのかわからないでしょ?“デモが来て朝鮮殺せ殺せ言われる。家の前をそのデモが通って、それから昼間家に一人でいるのが怖くなった。介護保険使ったら、日中ヘルパーが来てくれるやろ?誰か家に居ってほしいねん。”そういう感覚ですよ。「殺せ、殺せ、朝鮮人」と言われた。そういったデモが家の前を通ったということは、つまり私を殺しに来た、私のことをゴキブリ、蛆虫と言っている人たちがやって来たし、また来るかもしれない、二度と自分の家で安心して過ごすことができない。大げさではなく、そのような被害を、生野区だけ見てもコリアン住民に与えてしまったわけです。安心して外を歩けない、この感覚て、分かりますか?子どもを連れて外出するときヘイトスピーカーの活動予定をネットで調べてから外に出なければならない感覚。きわめて強い精神的被害を個人に与える行為。

 条例は何が対処すべきヘイトスピーチか結構きびしく絞り込んでいる。在日コリアン等を「社会から排除」する目的で行われているかどうか。「権利または自由を制限」「憎悪もしくは差別の意識または暴力をあおる」かどうか。態様としては相当程度侮辱し誹謗中傷、在日コリアン等の相当程度が脅威を感じる表現行為かどうか、公然性としては、不特定多数のものが知りうる状態におくような場所または方法で行われた表現行為。絞り込みがされてます。 
 この条例ができたとき息苦しさを感じるという書きこみがネット上に現れた。このような表現行為ができなくなることで息苦しさを感じるのは誰?それは路上でヘイトスピーチを行ってきた人たちです。

 もう一つは大阪市の条例ですから、地域性も大事。具体的に話をしていくのに、現在条例がどのような効果を発揮したかをみながら条例の中身をもう少し詳しく。16年7月1日付けでわれわれは被害の申し入れを行った。17件。インターネット上のヘイトスピーチ。デモとか街宣を記録した動画。条例前の動画であるがヘイトスピーチを含む動画を条例施行後も公開している行為に対し具体的な発言とか掲げているプラカード等、一つ一つを指摘しながら申出をおこなった。もちろん条例第5条(大阪市内に限定)についても限定して精査をして行っているし、市長が委嘱をしているんですけど、一定の独立性を保った、弁護士2人、研究者3人からなるヘイトスピーチ審査会でしっかりと審査が行われ、実際に大阪市長が今年の6月ですけども、審査の結果を受けてヘイトスピーチの拡散防止措置というのを行っています。動画投稿行為が行われた、動画共有サービス会社に対して動画の削除要請、大阪市長による氏名等公表。これは大きな意味を持っている。記者会見をして大阪市として絶対許さない姿勢をメディアを使って表明した。行政の長としてそのような姿勢を明確に示すということは、大きな社会的な影響を持っている。
 同時にアカウント名を公表。動画投稿を行った。条例では氏名が公表できることになっているが、ネット上なので分からなかった。少なくとも3つのアカウントの内、ダイナモという男は大阪市の条例の審査に上げられた段階から、大阪市での活動を止めているんですね。もう一人のyuu1という男、見なくなりました。アオイというのも活動しなくなっている。たかがアカウント名でも効果は上がっている。ヘイトをしてる人の特徴は、デモや街宣をやるだけで終わるのではなく、記録を撮って流すことで、共感を得ようとしているわけですけど、共感を得るためのネットというツールをこの条例によって、限定はあるが我々は奪うことができている。これはこの条例の大きな意義だと思っています。

 ただ、最初の申し出を行ってから拡散防止の措置が取られるまでは1年近くかかっている。あるいは実名をさらすということをしない限り、効果を持たないくらいに確信犯のヘイトスピーカはいます。その人たちに対しては、プロバイダにたいして大阪市が行政措置を取るにあたって個人情報等の提供を求めることができる根拠となる条例改正の課題が見えてきています。実際大阪市は来年2月の市会に、契約をしている個人の氏名等の情報を明らかにする根拠となる条例改正をしますよということで具体的な作業をやっています。仮にこの条例改正ができれば、ネット上でやられているヘイトスピーチ、今、野放しですが、これを少なくとも大阪市とか大阪市民にかかわるそれを、やめさせる大きな力になるだろうと思っています。大阪市による来年2月の条例改正は、関心をもって見守っていかなければならないし、それをしっかりと行っていただくための働きかけもしていかなければならないと思っています。さらに将来的な改正に向けての話となると、名前も顔も住所もさらしてデモや街宣をやっている人間が、数はすくないけどいるんですね、やっぱり。そういった人間はどうすれば止められるのか?

 これは今、罰則とか禁止事項がない条例を応用していきながら、その結果としての話になるんでしょうけど、将来的には私は禁止条項、なぜ禁止条項かというと、それがあることで明確に我々が民事で彼らを訴えることができるんです。罰則ていうのは、それがあることで罰金なり禁固なり。そうなるかもしれないと思った時点で、さすがに彼らは委縮をして自粛をし始めるかもしれない。彼らなりに、どういった表現行為がヘイトスピーチにあたるのかということを真剣に考えて、今も行っているデモ行進や街頭宣伝の中から、少なくとも条例に定義されているようなヘイトスピーチを止めていくかもしれない。さらに言うと、禁止条項や罰則条項があることで―もちろん、警察がデモや街頭宣伝の現場で弁士注意なんてやることは、われわれ望んでいません。大阪市の審査会、がんばってやってくれているわけですけど、それもやはり独立性、透明性という部分で言うと、市長がじかに任命するということで何らかの影響力が働くのではないかというと、まだ、不十分である―ということは、この禁止条項、罰則条項があることで、裁判、果たしてそれらの表現行為が差別的言動であるかどうかということを公正に審議していただく、そしてその公正な判例が積み重なっていくことによって、いったいどのような表現、どのような言動というものが違法な差別的言動であるのかということが、社会に定着をしていくということにつながるのではないかと思っています。

 非常にせっぱつまった状態でありますよといった前半の話と非常に悠長なこの条例の応用といった話がどう繋がるのかということですけども、悠長であるとしても我々はできたものを一つ一つ使って、そのうえに一歩ずつ前に進むしかないわけです。気が長いですけども、少なくとも私の子どもが成人するころには、もうちょっとましな条例ができるように、頑張っていきたいと思っております。ぜひ、今後とも気長に、そして飽きることなく取り組みについて注目していただいて、時にはご協力を皆さんからいただきたいなと思っております。
ぜひよろしくお願いします。


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ロックアクション講演会「関東大震災朝鮮人虐殺といま」文字起こし③ 西崎雅夫さん(後半)

「戦争あかん!ロックアクション」のブログより引用
http://himitsulock.hatenablog.com/entry/2017/12/03/160906



戦争あかん!ロックアクション講演会(2017.11.06)
「関東大震災朝鮮人虐殺といま」
~あの日、あの空の下、東京で何が起きていたのか?~

講演 西崎雅夫さん(後半)
(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会・一般社団法人ほうせんか)

前半はこちら → http://madameeiffel.blog2.fc2.com/blog-entry-241.html

 これは青山学院の様子です。郡司浩平さんがこう言っています。青山学院の寄宿舎に郡司さんがいたのです。
「そこに朝鮮人が1人来て、『助けてくれ』と言うのです。で、キリスト教の学校で非道な目に遭っている人を助けるのは当然のことと考えた。外部の者を泊めるのは、学院長の許可が要るので、学院長に相談した。すると賛成してくれた。その日から子どもを含めた7~80人に及ぶ朝鮮人が、難を逃れて青山学院校内の寄宿舎に暮らすことになったのである。」
 
 これは助けてくれた人の話です。こういうキリスト教徒、宗教家の人やいろんな人がけっこう朝鮮人を助けてます。でも、助からなかった人も多く、次は佐久間町の話です。そこだけ一角だけちょうど焼け残ったのです。そこで起きたことです。
 小林勇が岩波茂雄といっしょに居た時の話なんですが、
「佐久間町の狭い一角が残っていた。川岸に近いところに電車が一輌残っている。2人は中へ入って一休みした。中には一人の男がいて私たちは問答をした。
『えらいことでしたね』
『まったくえらいことですね』
『ここらも大分朝鮮人騒ぎをしていますね』
『ええ、もうひどいですよ。ようやく焼け残った所を放火されたのではやり切れませんからね』
『実際朝鮮人は放火したのでしょうか』
『ええもうひどい奴らですよ。どしどし殺してしまうのですね』
『殺したりするのですか』
『昨夜もこの河岸で十人ほどの朝鮮人をしばって並べて置いて槌でなぐり殺したんですよ。』
『その屍体は?』
『川の中や、焼けている中へ捨てました』
 その後道端に、蜂の巣のようにつつかれた屍体を見た。そして私はノートに書いている。
『今度の惨害で一等不幸の目にあったのは朝鮮の人々にちがいない。彼らも同じ人間で同じ地震にあい、同じ恐怖にさらされた。そのうえ生き残った人々に殺されるかも分からないとはなんということだ』」

 また、古川という小さな川の話です。川岸で働いていた14歳の後藤さんの証言です。
「2日の夜、10時過ぎ馬車屋に夫婦で雇われていた私の知り合いの朝鮮人の奥さんの方が、近くの雑木林の中で凌辱を加えられ虐殺されたということを聞いて知っています。私と一緒に警備していた人間に、お前の知っているかみさんがあそこでやられているから見てこいといわれ、とても行く気になれなかったのが当時の私の実感でした。」

 六本木の島屋さんの話。
「警察のつい側までくると大変な人だかりである。やっつけろ、殺してしまえと罵っている。見ると一人の巡査が手を振り振り多くの人々を制止している。すると群衆の中の一人が懐中電灯を取り出して包囲されている者の顔を照らした。こやつこそ本物の不逞漢だ、やっつけろと叫んだ。巡査は必死に制している。グサッと音がしたかと思うとたちまち不逞漢と称される者の臍の上と思うところに、竹槍の穂先が現れた。ばったり倒れると群衆は散ってしまった。誰かが背後から突き刺したものと見える」

 これ、明治時代の写真ですけど品川警察署です。当時は田舎の方の警察はこんな感じの板塀です。大井町で働いていた人が、あやうく殺されそうになって近所の品川警察まで囲まれてたどり着いたという証言です。全さんです。
「夜も遅くなって受け持ちの巡査と兵隊2人と近所の日本人15~6名が来て『警察に行こう。そうしなければお前達は殺される』と言いました。私たちは家を釘付けにして品川警察署に向かいました。私たち13人のまわりは近所の人たちが取り囲み前後を兵隊が固めました。大通りに出ると待機していた自警団がワァッーとかん声を上げながら私たちに襲ってきました。近所の人たちは大声で『この連中は悪いことをしていない、善良な人たちだから手を出さないでくれ』と叫び続けました。しかし、彼らの努力も自警団の襲撃から私たちを完全に守ることはできませんでした。長い竹槍で頭を叩かれたり突き刺されたりしました。殺気だった自警団は野獣の群れのように随所で私たちを襲いました。」
 だからこうやって近所の人たちが守ってくれて助かったという例も本当にたくさんある。

 大田区の大森という漁村での話。西川春海さんが聞いた話です。
「3日でしたか4日でしたか、海岸で自警団の人たちが、7~8人団をなして来た朝鮮人を生け捕ってしまったのです。7~8人とかたまっていたので、抵抗もしたでしょう。そのために只でさえ狂気のようになっている人たちは、余計に昂奮したと見えて、全部を針金で船へしばりつけて、それへ石油をかけて、火をつけて沖へ離したのですって、…どんなでしたでしょう。」

 中央区月島3号地。これ、高瀬さんという人が思いだして書いてくれた絵ですが、こんな話です。
「(2日)水を求めて外へ出ると、5~6人の裸の男が針金で縛られて、周りに刀や鉄棒を持った作業着の男数人がこづきながら歩いているのを見えました。やがて石炭の焼け残りの火のところにくると針金でしばられた男の両手足を持って火の中に投げ込み始めました。私は逃げ帰り、母に告げたことを覚えております。同じ日、岸壁に行くと、これも針金でしばられた裸の男10人ぐらいが、次々と海に投げ込まれているのが見えました。」
 きっと、鮮明に覚えているんですよ。だからこういうふうに絵が描けるんですね。後ろ側の丸いのは土管です。そういうのも覚えているんですね。

 これ、日本画家の田中翆璋(たなかすいしょう)が書いた絵なんですけど、交番があって、その前に朝鮮人が縛られて座らされているという場面なんですけど、女優の清川虹子がこんな様子を見ています。
「朝鮮人を1人つかまえたといって音楽学校のすぐそばにあった交番のあたりで、男たちは、手に手に棒きれをつかんで、その朝鮮の男を叩き殺したのです。私はわけがわからないうえ恐怖でふるえながら、それを見ていました。小柄なその朝鮮人はすぐにぐったりしました。」

 これ、浅草の写真です。震災の時の火事でほとんど焼けてしまいました。その浅草公園での話。山本さんの証言。
「上野方面から朝鮮人が向かっているから注意せよとの情報が自警団にくる。公園内に入る者は片っ端から調べ、朝鮮人らしき者にはザジズゼゾといわせる。怪しいと思うものは、交番裏の空き家へ押し込む。翌2日になって警官が取り調べの上釈放するが、自警団が承知しない。2~3人でこの釈放された男を鉄棒でなぐる。頃を見て針金でしばり、まだ焼け残っている火の中へほうり込む。これを繰り返し繰り返しするのである。無残な殺し方をしたものである。」
 火災があった所では結構焼き殺すということが行われています。

 北区の赤羽土手での話。松崎さんの証言。
「うすぐらい土手の桜並木に朝鮮の人が1本の桜の木に1人ずつ縛りつけられているではありませんか。そのまわりを兵隊がサーベルをガチャつかせながら、『今夜こいつらをぶった切るんだ』といきまいていました。私は恐ろしくてみないようにして通りましたが、その人たちはもう声も出ず、時どき足をバタバタさせるぐらいです。むごいことです。恐ろしいことです。」

 これも赤羽土手での話。藤沼さんの証言です。
「私の妻の妹は赤羽で朝鮮人の夫婦者2家族を同居させており、その人たちはどこにも行かず家にいたが、3日ごろ憲兵と制服の巡査が来て連れ出したので、後を見送っていると、赤羽の土堤の上に4人を立たせ、憲兵がドスで4人の首を切り落とし川の中へ突き落した。」

 地震のときの様子、荒川区の三河島という所です。火災はここはなかったはずなんですけど、江崎さんの証言です。
「その翌日、今度はその朝鮮人を虐殺した。すごかったですよ。見たけれどかわいそうでしたねえ。これは今でもね、大震災の経験者でもこういうことはあまり言わねえですが、事実です。それで自警団をこしらえて、その当時刀剣類は自由に所持していまして、今みたいにやかましくない。それで、まっこうから斬ったかというとそうじゃない。後ろからです。人間というのはそういうもんです。人間はやっぱり慈悲というのがありますから。思ってみりゃ関係のない人を斬るわけですから。戦争じゃねえんですから。ただ、憎しみをもっていてね。あのデマはどこからどういうふうに広がったのか。」

 同じようにこれ、近くの南千住という所ですけど、家が結構崩れているんです。原田さんという当時中学1年生の人の目撃談。
「南千住警察署の裏庭に朝鮮人が後ろ手にしばられて30人ほどおりました。私は恐る恐る板塀の穴からのぞき見ました。何人かの朝鮮人が目隠しをされて次々と銃で撃ち殺されたのを見ました。大きなわめき声も覚えております。」

 葛飾区の奥戸中学校、郷土クラブが聞いた話。
「奥戸橋で5,6人つかまえて橋の番小屋の所へつなつけて入れといたんだよ。青年会役員で朝鮮人をつかまえて、みんな入れてしまう。朝になって戒厳令がしかれたら、朝鮮人を橋の上で殺してしまう。剣付きでね。誰が殺すかというと国府台の兵隊さん。まあ新兵だな。上等兵がいっしょに来て、やりで橋の上からみんな突き落として。ヘイヘイヘェ~、ズブリズブリね。それもまあ見てた。」「川に落ちた体は血をふき出し、その流れ出た血は川の中を尾を引いて流れていきました。50メートルも行くと死体はしずんでいくのでした。」

 もう、皆さん嫌になってますよねえ?でも、ごめんなさい。まだ行きます。だって、事件が実際に起きているから。

 四ツ木橋です。軍隊が殺したって言う死体を見た絵を篠塚さんていう人が書いてくれました。橋があってその向こうに死体があった。ここでの証言、リアルなんですけど当時6歳だった水野さんの証言です。この人は浅草で被災して家が焼けたのでお父さんと生まれたばかりの妹とお母さんと4人で、四ツ木橋にたどり着いて、橋げたのところに蚊帳をつって寝てるんです。お父さんはどこか行ってしまうんですけど。その時の話です。
「阿鼻叫喚がいくらかおさまったと思われた時、母がマッチをすった。マッチを上下左右させた。押し殺したギャッという叫びが母の口を辛くもついて出た。《血よ、血よ》。私の目はパチッと開いた。母はもう一本、もう一本とマッチをつけた。橋上から滴り落ちる液体が蚊帳を伝わる。赤褐色。血だ。私には、阿鼻叫喚のなかに《アイゴ―》《哀号》と泣き叫ぶ声がまじっていようなど、聞き分ける分別などあろうはずもなかった。やがて蒲団の上の白い毛布に、はっきりその血痕が印されている。私はただただ震えおののいた。母も私の両手をにぎり、やがて上半身をしっかり抱きしめ、身震いが止まらない。その身震いが、そのまま、私に伝わった。生涯、私が母に暖かくも冷たくも抱かれた記憶は、この時、ただ一度だけである。
 やがてしばらくして父が戻ってきた。《おい、津る、明善はどこだ?》《やった、やったぞ、鮮人めら十数人を血祭りにあげた。不逞鮮人めらアカの奴と一緒になりやがって、まだ、油断ならん。いいか、元気でがんばるんだぞ。》そういうなり向島側に駆け戻って行った。炎を背に父のシルエットが鮮やかだった。四ツ木橋下での恐怖の一夜、非人道そのものといえる一夜をへて、翌朝、渡った四ツ木橋の所々方々に見受けられた血塊が無残であった。」

 生き残った朝鮮人慎昌範さんの証言です。慎昌範さんはこっちの方が安全だと思って京成の線路の鉄橋の方に避難されたんですね。でも向こうから自警団員がやってくるんです。自分たちの仲間15人ぐらいの端っこの人に自警団員が聞くわけです。「お前は日本人か」。聞かれた方の朝鮮人は日本語が分からない。だから朝鮮語で「何て言ってるか分からないから通訳してくれ」と言ったんです。で、その朝鮮語を聞いた自警団員は、その人が朝鮮人だと分かったわけです。だからその人を日本刀で斬り殺して川の中へたたきこんだのです。次々仲間が殺されていくので、危ないと思って慎昌範さんは、川の中へ飛び込むんです。川へ飛び込んで川岸の向こう側の葦の原に隠れこんで、何とか夜をすごしました。やがて明るくなって自警団員に見つかって、陸上に引き上げられるんです。そこまでは覚えているのですが、その後、慎昌範さんは記憶がないのです。気がつくとすぐ近くにあった寺島警察署という所の死体の山の中なんです。たまたま、その寺島警察署に弟が収容されていて、弟はそんなに深い傷じゃなかったので、「どうも死体の山の中から兄貴の声が聞こえる気がする」というので調べてみたら、兄貴がまだ生きていたのですね。それで命だけは助かりましたけど、死んでしまうところでした。体中傷だらけなんです。日本刀で斬られたり、竹槍でつつかれたりしたから。特徴的なのは両足の内側、足首に穴が開いてる。これはトビ口でひっかけて死体として引きずったから、穴が開いているのです。完全に死体だと思われて収容されたのですね。たまたま弟がいっしょに収容されていたから、命だけは助かった。
 生き残った人の話は凄まじいです。

 この写真は「サンデー毎日」の御蔵橋ていう橋、両国の国技館のすぐそばにあったんです。この写真ですが、橋の欄干に御蔵橋と書いてあって、その下に死体がある。よく見ると、この死体は縛られてるんです。で、そこでの話です。成瀬さんという人がこう書いてます。「5日の日であった。『朝鮮人が来た』というので早速飛び出して見れば、5~6人の朝鮮人が後ろ手に針金にて縛られて、御蔵橋の所につれ来たりて、木に繋ぎて、種々のことを聞けども少しも話さず、下向きいるので、通り掛かりの者どもが我も我もと押し寄せ来たりて、「親の敵、子どもの敵」等と言いて、持ちいる金棒にて所かまわず打ち下ろすので、頭、手、足砕け、四方に鮮血し、何時しか死して行く。死せし者は隅田川にと投げ込む。その物凄さ如何ばかり。」

 同じ場所で篠原さんという人が、焼き殺す状態を見ています。
「私の考えでは、薪か何かで相当ぶたれ、いためつけられていてもう半殺しになっていました。テントの中では、『パピプぺポと言え』とか、何か調べていたらしいです。その半殺しの人を川べりに無理やり引きずってくるんです。その人たちは抵抗するんですけど、もう抵抗する力もなくて、薪でおこした火の上に4人か5人の男の人が、朝鮮人の手と足とが大の字になるように、動かないように持って下から燃やしているんですよ。火あぶりですよね。焼かれると皮膚が茶褐色になるんです。だから焼かれている朝鮮人は悲鳴をあげるんですが、もう弱っている悲鳴でした。そして殺した朝鮮の人々が次々に川に放り込まれているのです。私は終わりまで見ませんでしたが、知り合いのおじさんが全部見ていたら13人とか14人とかその場で殺したのを見たって、母にいったらしいですよ。」

 そのすぐそばに安田邸という所があって、湊さんの証言。
「川に面した西門と横川の南門とがそのままに保たれていた。その南門のところに、5~6人の鮮人が、例のごとく針金で結わえ付けられ、石油をぶっかけて火をつけられている。生きながらの梵殺だ。現実に見たのはこのときが初めてだ。人数も5~6と書いたが、勘定しているゆとりなどない。それにこの人たちは半死半生の態で気力を失っていたのか、それとも覚悟していたのか、隅田川に投げ込まれた人々のように一言の叫びもしなかった。ただ顔をそむけて去る私の背後にウウッ!!といううめき声が、来ただけだ。」

 両国の被服廠跡(当時)、この場所だけで38,000人の人が焼け死んでいます。ここでも虐殺事件が起きた。浦辺政雄さんという人の証言です。
「そのわずかの空き地で血だらけの朝鮮人を4人、10人ぐらいの人が針金で縛って連れてきて引き倒しました。で、焼けボックイで押さえつけて、一升瓶の石油、僕は水だと思ったけれど、ぶっかけたと思うと火をつけて、そしたら、本当にもう苦しがって、のたうつのを焼けボックイで押さえつけ、口々に『こいつらがこんなに俺たちの兄弟や親子を殺したのだ』と、目が血走っているのです。」

 証言はまだいっぱいあるのですが、時間との関係で省略します。他にも白髭橋とか、寺島警察署、江東区の羅漢寺、大島とか亀戸警察、いろいろあるんですけど、それはちょっと飛ばさしていただきます。
 いっぱい証言を紹介しましたけど、逆に言うと証言でしか記録されない、分からない事件なんですよ。後半紹介したのは。つまり公的資料に載っていない話なんですよ。この事件は本当に隠されて隠されて、分からないまま来ている。

 事後処理の問題を一点紹介したい。
 遺骨の行方が分からない。私がかかわった墨田区でも警察の方で夜中に掘り起こして、どこかへ持って行ってしまったという所までは分かるんですけど、じゃあどこへ持って行ったのか、ということ…すら分からない。実はよくよく調べてみると、それが当時の日本政府の方針だったんですね。
 これは朝鮮総督府警務局の出した資料なんですけど、こういうふうな5つの方針で朝鮮人の遺骨は処理しましたという話なんです。最後のだけ紹介します。「起訴セラルタル事件ニシテ鮮人ニ被害アルモノハ速ニ其ノ遺骨ヲ不明ノ程度ニ始末スルコト」これが日本政府の方針なんです。つまり遺骨は問題になったケースに関しては「不明の程度」に始末しろってことなんですよ。だから、荒川河川敷でも遺骨は「不明の程度」に始末されてしまったんですよ。今日に至るまで分からないんです。遺骨の行方も、殺された人数も、名前も分からない。

 当時唯一の調査をしたのが独立新聞なんですね。日本政府は当時何人殺されたか調査をしなかった。だって調査をしたら膨大な数になりますよね。数千人殺しているわけだから。当然植民地支配に大きな影響を与えることになる。だからでしょう。徹底的に隠したんです。じゃあ、調査した人はいるのか?当時の朝鮮人留学生たちが唯一調査をしました。実際に関わった人達に話を聞きましたけど、なかなか難しかったと言ってました。つまりどこに行くにも警官がついて来て、日本の村に行って、ここで朝鮮人が殺されたかと調べるんですが、しゃべってくれないし、この調査の費用もどこからも出なかったので、非常に不完全な形で終わってしまって悔しいと話してくれました。それでも、約6,000人の人が殺されたというのは、留学生の人たちの調査で明らかになっている。ただ、実際に死体が発見できた数は半数あまりなんですよ。それ以外は死体すら発見できなかった。だから、6000というのはウソじゃないかという人たちがいるが、当時の状況を考えると、この数が一番事実に近い、少なくとも数千人というのは言えるはずなんです。
 今でも分からないのは、当時の日本政府が隠したからです。その後も日本政府は調査しないので、未だに分からない。

 (私が)何故今もこんなことをやっているのか?関東大震災って94年もまえに起きたんですよね?なぜこんなことを今もやってるかっていう話ですけど、私、何件か頼まれていることがあるんです。4年前にソウルに行った時に、おじいさんの遺骨を探してくれないかと頼まれました。洪東善さんから、たのまれました。そのお爺さんの名前がこれなんですけど、洪ナム裕さんと洪喆裕さん名前が2つあるそうです。ナム裕はおじいさんの本籍です。自分のおじいさんは関東大震災の時東京にいて、留学生だった。おばあさんとは結婚していたが、妊娠していたから韓国にとどまっていた。関東大震災があって、おじいさんはまったく消息が分からない。おばあさんはずうっと待っていたが、結局おばあさんが亡くなるまで、おじいさんの行方は分からない。おばあさんが遺言を残すんです。「骨でいいから探し出して、自分のお墓に入れてほしい」。遺言を受けた洪さんはずっとずっとおじいさんの遺骨を探しているんです。
 たぶん、日本から関係者が行くたびに、私のような者にも頼むんです。「何とかおじいさんの遺骨を探してくれないか」。私も頼まれて、探してはみたんだけど、さっきも言ったように徹底的に日本政府が隠してしまった。公的資料がほとんどないので分からないんですよ。だからこのおじいさんの遺骨を探している、洪東善さんは今も遺骨を探しています。

 去年も別の人から、おじいさんのお兄さんの遺骨を探してほしいと頼まれました。遺族は遺骨を探し続けているんです。おそらく100年経っても探し続けているんです。だって終わりようがないじゃないですか。肉親が殺されたんだから。だから遺族にとっては終わっていない。私たち日本人も終わらせることはできないんじゃないか。このままでは。というのが(理由の)一つ。

 もっと大きいのは、このあと話があると思いますが、今でもヘイトスピーチが行われているということ。今でも街中で「朝鮮人は皆殺しにしろと」いいながらスピーカーで叫んでいる人がいるわけですよ。絵空事ではないのは、94年前に実際に朝鮮人を街中で皆殺しにしているからですよ。知り合いの在日のおばさんが言う。「自分がこんな運動をしているのは自分の子どもや孫が殺されないためだ。何かあったら自分の子や孫が日本人から殺されるかもしれない。未だに日本人社会はそんな社会だ。だから私はやめるわけにはいかないんだ。多くの日本人を味方に付けるほかないんだ。」と言います。これが本当のリアルな話です。

(ヘイトのプラカードの写真)「良い韓国人も悪い韓国人もどちらも殺せ」変なプラカードだと思いませんか?関東大震災のときには自警団の虐殺があまりにひどかったので政府が「何人か朝鮮人が悪いことをしたけれども多くの朝鮮人は順良である。やたらと迫害するんじゃない」と司令が出た。それをさらに悪くして、どちらも殺せっていてるのが90年後のこのプラカードなんです。

 これ横網町にある追悼碑です。今、これが問題になってます。ここで追悼式を毎年行っています。小池都知事、それから今年から墨田区長も追悼文を寄せなくなった。今までずっと寄せてきたのに。去年の8月の段階で、右翼女性グループ「そよ風」というのがいるんですけど、このそよ風が、両国の駅前で追悼碑を撤去せよという街宣をしていました。そのあとから、実際に動きが始まりました。今年3月の段階で、都議会で古賀議員が都知事に対して質問をした。「横網町公園に立つ追悼碑の文章は6000人とかいうでたらめな数字を上げてるし、あんなものがあっていいはずがない。横網町公園の追悼碑は撤去すべきではないか」。これは東京都の公園にあるんですよ。だからその権限は東京都にあるんです。「毎年追悼文を送っているが、そういうのも止めるべきだ」という話を古賀議員がしました。その古賀議員は質問が終わってからも都知事のところに行って、しつこくこの2つを要求したようです。それを受けて今年、小池都知事が追悼文を取りやめてる。
 これは単に文章をやめたって言うだけの話ではないんです。追悼文はずっと、例えば石原慎太郎でさえ送り続けてきたわけです。それは、党派なんて関係ないんですよ。自民党だろうが何だろうが、1973年の追悼碑を作る段階で、あまりに悲惨なことがあったって言うのは皆知っているので、みんなで一致協力して追悼碑を作ったという流れがあります。その流れを今年否定してしまったんですね。私の感覚で言えば小池さんがやっていることは、朝鮮人は殺してもいいんだよという宣言です。だって、かつてそれだけのことがあった場所ですから。

 追悼文の話以外にも、HPに載っていた関東大震災に学べよっていう、内閣府の中央防災会議が出している、つまり政府の公な反省文です。その中で朝鮮人虐殺があった、そんなことは二度と繰り返してはならないという文章があって、それは学者さんがまとめているんですけど、HPに掲載されて誰でも読めるようになっていたんですけど、それが消されて、一時的に読めなくなった。4月の段階です。新聞社が取り上げたらすぐ元に戻したんですけど、そういうこともあって、いろんなことがあって、今、大きな流れでいうと小池都知事が…まあ来年どうなるかなあ。難しいかなあと思ってます。追悼文出せって言っても。でも正しいことを主張していく以外にないですよね。

[まとめ]
 朝鮮人虐殺に関していえば本当に記録がない。ただ、当時目撃した人たちは結構記録を残している。民間の証言をまとめることで当時何があったかということはある程度推測できる。そう思って本を作った。いわば国の記録のなさに対する民衆の記憶の集積だと思ってます。それ以外に今のところ手がないのかなと。
 秘密保護法みたいな変な法律ができたじゃないですか。国家の危ないもの怪しいものを隠す法律ができてしまっていますからね。おそらく都合の悪いところは隠し続けるでしょう。それに対して何ができるか、少なくとも私たちのできることは、人から直接話を聞いて、現場に出かけて行って、人と人がちゃんとつながって、それでネットワークを作っていく。その中で本当のことって必ずわかっていくんだろうなと思ってます。私はいろいろな人とつながりたいから、わざわざ新幹線に乗ってきています。そういう人のネットワークは強い。そこから未来が見えてくるのではないかなと思います。

西崎本チラシ_001小

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ロックアクション講演会「関東大震災朝鮮人虐殺といま」文字起こし② 西崎雅夫さん(前半)

「戦争あかん!ロックアクション」のブログより引用
http://himitsulock.hatenablog.com/entry/2017/12/03/065416



戦争あかん!ロックアクション講演会(2017.11.06)
「関東大震災朝鮮人虐殺といま」
~あの日、あの空の下、東京で何が起きていたのか?~

西崎写真


講演 西崎雅夫さん(前半)
(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会・一般社団法人ほうせんか)

 大阪でこういう話をすると思っていませんでした。東京の地名とかいっぱい出てきますのでわかりにくいと思いますけども。
 私自身は研究者でも何でもなく、たまたま長くこの運動にかかわった一市民。だから市民としてかかわった実感から話をしたいと思います。

 これ、関東大震災の時の地震の図です。震度7は神奈川県の南部ですね。1923年木造住宅ですから被害が大きかった。でもそれ以上に被害が大きかったのは、これは東京の中心の震度なんですけど、東の方、江東ゼロメートル地帯、揺れがひどく被害が大きかった。しかし揺れ以上に火事なんですね。関東大震災の場合。

 亡くなった人の多くは火災なんですね。これは火事の燃え広がる様子を現したものですが午後1時から6時間後、地震があって6時間後には東京の中心部の半分ぐらいが燃えていた。それぐらい早い火災。お昼時だったのでいろんなところから出火して、風が強くて火事が一気に広がってしまいました。この一気に火事が広がったっていうのが、あれは朝鮮人がやった、になったんですね。犠牲者が10万人でていますが、その多くは火災なんです。東京の死者が7万人、神奈川が3万人。

 火災が多かったので被災者がでる。190万人。家を失って路頭に迷う。その中で人災が起きた。当時テレビもラジオもない新聞社も焼けていて発行できない。情報がまったく途絶するんです。東京の中心部が焼けてますから国家機能が一時的にマヒする。だからその中で事件が起きたんです。

 事件が起きた現場の一つが、私が直接かかわり始めたのがこの場所です。東京の墨田区にある荒川放水路。人工の川。この写真の真ん中に、今はないですが昔は木の橋の四ツ木橋という橋があった。これが避難経路になったんです。

 絹田幸恵さんは小学校の教師をしていました。この人がそもそも今の場所で、事件の発掘をした人です。絹田さんは生徒たちに、荒川放水路の話をしました。荒川放水路っていうのは人工の川だよ、あれは人の手で掘った川だよ。ところが生徒が信じなかった。「先生、あんな大きな川が人の手で掘られたなんて信じられないよ」

 絹田さんが偉いのは、これは自分の教え方が悪かったのだなと思って、荒川放水路の歴史を調べ始めます。工事のことを知っているお年寄りに話しを聞いて回りました。上流の北区岩渕から25キロ、夏休みを使いながら真っ黒に日焼けして一軒一軒お年寄りの家を話を聞いて回った。その中で「朝鮮人が殺された」話を聞いた。関東大震災の時、ここの四ツ木橋のところでたくさん朝鮮人が殺された。その朝鮮人の遺体が今でも河川敷に埋められたままになっている。で、絹田さんが呼びかけて、追悼する会ができたのが、1982年。私自身はその当時から関わっています。発足の時私はまだ、大学4年生でした。

 なぜこの地域でそういう事件が起きたかというと、荒川放水路の工事は大変な工事だったので、たくさんの労働者が働いていた。当時植民地だった朝鮮半島から出稼ぎにきていた朝鮮人労働者がたくさんいて、その工事をしていた人たちの中に朝鮮人が何人もいた。町の中の工場でも、主に石炭を運ぶとかいう力仕事にはたくさん朝鮮人が働いていた。東京の東部は朝鮮人労働者がたくさん働いて住んでいたところなんです。

 これは、関東大震災の時工事をやっていた土方の親方の日記です。その中には、パクさんとか李さんとか名前がいっぱい並んでいて、その下にトとカタカナが書いてある。これはトロッコ押しの仕事をしていたという記録なんです。こんな具合に朝鮮人の労働者がいっぱい働いていたんです。そこに関東大震災が起きる。
 (旧四ツ木橋付近の地図を見て)ここに荒川放水路があります。向こう側(地図の左端)に隅田川があります。これ(荒川放水路)斜め、ここまでなんですけど、こっち側(隅田川寄り)焼けているんです。焼けた地域から人が避難して来る。川があるので橋を渡るしかない。それが四ツ木橋なんです。どうしてもそこに人が集中したのです。

 9月1日の夜、地震があった。このあたりに2万人ぐらいの人が避難した。家が焼けた、余震もある、怖い。そこにデマが流れるんです。朝鮮人が火をつけたと。いろんなものが爆発しますよね、火事ですから。あれは朝鮮人が爆弾を投げている。そういうデマが一気に流れる。そこですぐできるのが自警団。服装がバラバラで持っている物もバラバラです。つまりあっという間にそこら辺にいる人が、集団になって自警団を作って、家の中にある、あるいはそこら辺にある武器を持って武装したわけです。で、いたるところで朝鮮人を見つけては殺していくということが始まります。
 朝鮮人が襲ってくるというデマが流れたから、逆にその前に自分たちから朝鮮人を発見して襲っていくわけです。そういう事件がいっぱい起きて被害者がいっぱい出ます。

 先ほど写真を見せた荒川の場所では大体100人ぐらいが殺されています。1982年会を作った段階では、そこにまだ、遺体が埋められたままになっていると聞いたので、掘り起こしてみようということになった。試掘です。1982年の9月に掘ってみた。でも遺骨らしいものは出ませんでした。
 私たちは、これはまだ調査が足りない、もっとしっかり調べれば正しい遺骨の発掘地点が分かるのではないかと、いろんな文献資料を調べていくと、実は当時の新聞記事の中に、もうすでに、警察の方で密かに遺体を掘り起こしてどこかに持って行ってしまった。しかも2回もそれが行われたという記事があった。それがこの新聞の写真です。ここに書いてあるのは「骨も掘れずに遺族引還す」というタイトルです。もっと読むと「亀戸事件死体遺棄の現場は憲兵や警官に守られて」と、こういうタイトルです。実は亀戸事件の遺族たち、亀戸警察署の中で労働運動家が10人殺されているのです。その人たちの遺体も、朝鮮人の遺体とともに河川敷に埋められていたのですね。で、亀戸事件の遺族たちが遺体を返せ、明日骨を掘りに行くぞと言った、前の日の夜に警察が密かに遺骨を掘り起こしてどこかに持って行った。当日はいっさい遺族は現場に近寄らせなかった。これが11月13日。発掘は12日の深夜に行われた。2日後の14日にも2回目の発掘が行われた。トラック3台分の遺体を運び去ったと言われています。亀戸事件で殺された労働運動家10人、自警団員も一緒に殺されています。でも、おそらくそれだけではなかったんでしょう。一緒に埋められていた朝鮮人の遺体100人ぐらいが遺骨が運ばれて行ったんでしょうね。
 で、私たちは、こんな具合に発掘をしてみたんだけれども、遺体が見つからずよくよく調べたらすでに震災の年の11月に警察が運び去ったということが分かったので、せめて少なくとも現場に追悼碑を建てようとなった。河川敷に追悼碑を建てたかったが、一級河川なので国有地になる。国の許可が必要だが出なかった。建設省(当時)としては許可は出せないが、墨田区がうんと言えばこちらも考える。仕方がないので墨田区区議会に陳情書をだしたが、「区としても協力できない」という回答。仕方がないので私有地を探したが、事件のそばに良い土地はなかなか売ってない。

 2009年に追悼碑ができた。毎年9月河川敷で追悼式をやってから近所の居酒屋さんで打ち上げをしていた。これ、居酒屋さんの土地でした。親父さんと10年20年のつきあいになって、その間ずっと土地を探していたがどうしても見つからない。親父さんに相談したのです。どうしても追悼碑を作る土地が見つからないと。親父さんが「俺も年だから店をたたむからここに作ればいいよ」と言ってくれた。だから19年かかっている。そのほとんどが土地探しです。でもそう言って協力してくれた人がいたから、小さな私有地ですけど碑ができた。その隣に資料館を作った。小さいですけどいろんなことをして学びの場にもなっています。

 追悼碑ができた2009年、新聞にも出たからか、ちょっと反応がありました。追悼碑ができた直後来てくれた60歳ぐらいの人かな。「自分はおじいさんから話を聞いた。おじいさんは年をとってきたときに、初めて言ったんだけど、『自分は朝鮮人を仲間と一緒に5~6人は殺した。村のもの数人で、朝鮮人を後ろから鉄の棒で叩いて、気を失ったのを返事しないからと何度も叩いた』と得意げだった。でも『黙ってろよ』と最後に言うんだ」
 聞いたお孫さんはびっくりして、「うちのおじいさんも直接かかわってたんだ」。その後、ずっとモヤモヤした気持ちできたんでしょう。追悼碑ができた時、「自分のじいさんは本当に申し訳ないことをした」と、せき込むように話してくれました。

 あるいは別の日に83歳ぐらいの人が追悼碑をじっと見ていて、話を聞くと、自分のおばあさんが四ツ木橋のらんかに欄干に朝鮮人を押し付けてサーベルで刺殺して川に投げ込んでいるのを見た。おばあさんはびっくりして走って帰った。サーベルは当時警察官が持っていたので警察官がやったのではないか。
 そんな話がいろいろ聞こえてくるんですね。つまり、地域の中にずっと眠っていた話が、こういう運動があって、追悼碑ができ、直接の加害者が亡くなって少し出てきやすくなったのではないか。そういう意味で街中に碑があるのはいいことじゃないかという気がしている。

 毎年河川敷で何もないところで追悼をしているので、いろんなことを考えるようになりました。なんでしょうね。私自身、この河川敷で当時のことをお年寄りから直接証言を聞いたものですから、証言の重さというか大きさというか体感できた。逆に言うと証言でしか知りえない部分がたくさんあるという風に感じるようになった。当時植民地ということもあって関東大震災の朝鮮人虐殺事件は徹底して隠された。何人殺されたかいまだにわからない。名前も遺骨の行方も分からない。だから証言が非常に重要。だから何年かかけて証言を集めるようにした。

 何がいいたいかというと、まず公的な資料が非常にすくない。公的な資料を補う証言を紹介したい。これが主な話の中心です。
 震災の時に政府が公的なルートでデマを流したというのはご存じの方も多いと思います。内務省警保局長の名前で電報を出してます。全国にどんどん何回も。内容は
 「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内において爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり」
 流言を事実として電報を出してしまっている。つまり、政府は直接この事件に関わってしまっている。でもそれ以上のことはなかなか資料では出てこない。だから民間の証言をいっぱい集めて警察官とか憲兵とか公の立場にいる人がどのようにかかわっているかを調べてレジュメの3~5ページにまとめました。少し紹介します。

 まず伴さんという品川の人。
 「(1日の夜)サーベルの音もものものしく、制服の巡査が巡ってきて、『皆さん、今この非常な天災の時につけ込んで鮮人(ママ)が暴動を起こして市民の井戸などに毒物を入れて歩いたり、暴れ込むということもあるかも知れない。井戸水は気を付けてなるべく飲まないようにし、警察の方も手が回りかねるので、皆近隣のグループグループで組織を作って、各地区は自分たちで守ってほしい。鮮人(ママ)を見つけたら警察につきだすこと、良いね』とふれて行った。」
 警察が実際にこうやってふれて行くわけですね。

 次は宮崎世民さんという人。これも1日のまだ明るいうちの話です。
 「憲兵の腕章を付けた軍服の男が時々オートバイでやって来て、『朝鮮人の一隊が、目黒の行人坂をこちらに向かってやって来る。』と言って走り去る」。

 あるいは友納さんという人です。2日の午前2時くらいの話です。
「『朝鮮人が隊を組んで押し寄せてくるらしいです。東京市内があんなに焼けるのも朝鮮人が爆弾を投げたためだそうです。東京を焼き払ったら隣接の町村にも押し寄せて来るという知らせがありました。』『鮮人(ママ)が押し寄せてくるということを誰が知らせたのですか?』『今、警察から言ってきたのです。警官がふれ回っています。』『警察が言うのだから確かだろう。ぐずぐずしていると、どんな目にあうかも知れない。』」
 こんな具合に実際に、警察官とか軍隊とか公の立場の人が流言を撒いているというのが証言でいっぱい分かる。

 でも、警視庁が震災後にまとめた『大正大震火災誌』には警察官が流言飛語を流したということは一言もかかれない。そこに書かれているのは、流言はあった。警察は流言の元を調べ、全部デマだとわかった。それを民衆に知らせた。しかし民衆は信じずに朝鮮人を殺してしまった。警察は朝鮮人を守ったとしか書かれていない。このギャップは大きいです。だから証言というのは大事だと思う。

 新聞社の関係に務めている人の話。石井光次郎さんという当時朝日新聞に務めていた人がこう言ってます。
 「1日の夜警視庁から帰ってきた者の報告では、正力君から、『朝鮮人がむほんを起こしているという噂があるから、各自気を付けろということを、君たち記者が回る時に、あっちこっちで触れてくれ』と頼まれた。」
 「朝日新聞に務めていた下村宏という人が、『流言だから広めるんじゃない』制したので、他の新聞社の連中は触れて回ったけど、朝日新聞の連中はそれをしなかった。」
 という回想があります。

 他の新聞社の実際の例は、野村秀雄さんという当時国民新聞の記者だったが人こんな風に言ってます。
 「2日の晩に荒木社会部員が飛んできて、『今、各所を鮮人(ママ)が襲撃しているから、朝日新聞でふれ回ってくれと警視庁が言っている』と急報した。一同はこれを聞いて、『よしっ』とばかり小高運動部長ら5~6人と自動車に乗って全市の要所へ『鮮人が襲撃するから用心せよ』とふれ回ったものだ。」
 と自慢げに書いてますが、実際にこのようにふれ回っています。新聞記者も。だから新聞社も罪は重いと思ってます。

 実際に自警団による虐殺事件があちこちで起きるんです。いっぱい有りますが、今日は東京の話だけ。他の地域の話はしません。例えば東京の世田谷とか足立とかの話だけ。いくつか紹介します。

世田谷、烏山:
大橋場というところで事件が起きた。朝鮮人労働者を雇っている親方が東京の方で道が壊れているから修理に行ってくれと頼まれて、トラックに乗って朝鮮人労働者がずうっと東京の方へ向かっていった。たまたま、ここに通りかかったら地震で橋が壊れていた。だからトラックがそこに止まった。止まった瞬間にそこにいた自警団がトラックを改めた。すると中に朝鮮人の労働者がいた。だから自警団たちは朝鮮人が東京を襲いに行くと思ってしまう。だからこういうことになります。「鮮人とみるや警戒団の約20名ばかりは自動車をとりまき、2~3押し問答をしたが、そのうち誰ともなく雪崩れるように手にする凶器を振りかざして打ってかかり、逃走した2名をのぞく15名の鮮人に重軽傷を負わせ怯むと見るや手足を縛して路傍の空き地へ投げ出してかえるみるかえりみるものもなかった。」
正確な人数は分からないが、死亡1名重傷2名、おそらく重傷も死んだと思います。だから3人ぐらいが亡くなっています。

四ツ木橋 青木さん(仮名) :
「たしか三日の昼だったね。荒川の四ツ木橋の下手に、朝鮮人を何人も縛って連れてきて、自警団の人たちが殺したのは。なんとも残忍な殺し方だったね。日本刀で切ったり、竹やりで突いたり、鉄の棒で突き刺したりして殺したんです。女の人、中にはお腹の大きい人もいましたが、突き刺して殺しました。私が見たのでは30人ぐらい殺していたね。」

 これが現場の写真です。ここが唯一の避難経路だったから、この事件が起きたんです。で、この場所では自警団以外に軍隊がやってくるんですね。浅岡さんという人の証言です。
 「四ツ木橋の下手の墨田区側の河原では、10人ぐらいずつ朝鮮人を縛って並べ、軍隊が機関銃で撃ち殺したんです。まだ死んでいない人間を、トロッコの線路の上に並べて石油をかけて焼いたんですね。そして橋の下手のところに3カ所ぐらい大きな穴を掘って埋め、上から土をかけていました。」
 この軍隊が機関銃で殺してって言う証言はいっぱいあります。ですから犠牲者の数は多くなった。

足立区、花畑(はなはた):
当時埼玉県で捕まった朝鮮人が自警団に連れられて、東京の方へ連行されてきた。花畑まで来た時に地元の自警団が朝鮮人が来たというので、いきり立って、連行されてきた朝鮮人を殺してしまう。それがこんな感じの話になります。
「9月4日午後2時頃、埼玉県から関東戒厳司令部に護送中の鮮人孫奉元外4名を花畑村字久右衛門新田自警団金杉熊五郎(40)同人倅□一郎(18)外8名が同地綾瀬タクミ橋上で殺害し死体を川中に投げ込んだ。」
 こういうことが至るところで起きている。

 今、紹介したのは公的な資料に載っているものです。当時の司法省が事件として報告しているものです。でもそれ以外の事件がいっぱい有ります。それを後で紹介したい。
 それから公的な部分で軍隊が虐殺っていうのも公的な資料が一つある。当時の戒厳司令部詳報というのがあって、その中に軍隊がどこそこで何人殺したというのが書いてあります。その中の港区と江東区と江戸川区のケースを紹介します。まずは港区。麻布という場所で殺しています。軍隊の記録によると朝鮮人と間違えて日本人を殺したとなっている。でも、目撃者の証言は違うんですよね。林さんの証言、こんな感じです。
 「暗くなりかかった霞町の角を、私が二ノ橋の方に渡ろうとした途端、いきなり2~3メートル先の路地から二つの黒い影が飛び出してきました。夜目にもそれと分かる労働者風の朝鮮人たちです。はっと身構えようとした私の目の前で、彼らの背後をつけてきた2名の兵士が、グサリ、背中から銃剣を突き刺したのでした。兵士たちは何一つなかったような表情で、私の立ち止まっている前を通り過ぎていきました。」
 場所は二ノ橋。古川という小さい川にかかっている橋です。当時麻布に軍隊があったんです。ここの聯隊に所属していた人がしたんです。ただ、軍隊の記録はあくまでも当時の法律に照らして適法であった、正しい行動であったと必ず書かれています。

 田辺貞之助さんの証言は、
「石炭殻で埋め立てた4~500坪の空き地だった。東側は深い水たまりになっていた。その空き地に東から西へほとんど裸体に等しい死骸が頭を北にして並べてあった。数は250ぐらいと聞いた。一つ一つ見て歩くと、喉を切られて、気管と食堂の二つの頸動脈がしろじろと見えているのがあった。後ろから首筋を切られて真白な肉がいく筋も、ざくろのように割れているのがあった。首の落ちているのは1体だけだったが、ムリにねじ切ったとみえて、肉と皮と筋がほつれていた。目をあいているのが多かったが、まるっこい愚鈍そうな顔には、苦悶のあとは少しも見えなかった。みんな陰毛がうすく、『こいつらは朝鮮じゃなくて、支那(ママ)だよ』と、誰かがいっていた。
 ただひとつ哀れだったのは、まだ若いらしい女が、女の死体はそれだけだったが、腹をさかれ、6~7か月になろうかと思われる胎児が、はらわたの中に転がっていた。が、その女の陰部に、ぐさり竹槍がさしてあるのに気づいた時、ぼくは愕然として、わきへ飛びのいた。われわれの同胞が、こんな残酷なことまでしたのだろうか。いかに恐怖心に逆上したとはいえ、こんなことまでしなくてもよかろうにと、ぼくはいいようのない怒りにかられた。日本人であることを、あの時ほど恥辱に感じたことはない」。 
 その現場は今、江東区東大島の文化センターという公共の建物になっている。跡形もなにもないが、一カ所で250人、中国人が中心に殺された。

 江東区と中央区の境にある永代橋、これは震災のときに焼けてしまったので、通行しにくい状態なのですが、ここに連行されてきた朝鮮人たちが殺されている。それが黒木さんの証言です。
「『鮮人だな』と思った。両手を針金で後ろにくくりりあげられたまま仰向けに、あるいは横に、うつぶしに倒れて死んでいる。着物は彼らの労働服だ。顔はめちゃくちゃである。頭、肩にはいずれも大きな穴があいており、血がひからびてくっついている。そこにはまた、首のない死体がある。首が肩の際から立派に切り取られている。」

 江東区の丸八橋というところ、先ほど中国人がたくさん殺された大島の端っこのところです。浦辺さんという人が目撃しています。「丸八橋までほんの1分か2分というところまで来ましたら、バババパパーンとダダダーンという音がしたわけです。何かしらと思っていくと、橋の向こう側でちょうど軍隊が20人ぐらい、『気をつけー』『右向けー 右』って、整列して鉄砲を担いで行進して移動するところでした。のぞいて見ると橋の右側に10人、左側にも10人ぐらいずつ電線で縛られて。あれは銅線だから、軟らかくて縛れるんです。後ろ手に縛って、川の中に蹴落とされて、それへ向けて銃撃したあとです。左側のはまだ撃たれたばっかりだから、皆のたうって、血が出ているさかりなんです。真っ赤。血が溶けずに漂っているわけです。右側のは先にやったんでしょう、血も薄れていました。『なんだか知らぬがむごいこと』と息をのみました。」

 下江戸川橋(今井橋)、東京の江戸川区と千葉県の境の橋です。ここの橋のところでも軍隊が待ち構えて、朝鮮人を殺している。それが須賀さんの証言です。
「今井橋には習志野の騎兵連隊が戒厳令で来ていた。当時、富士製鉄には今の平田組と同じようにパルプを運んだり、まきとりをしたりする木下組という運送の下請けがあって、その飯場に朝鮮人も働いていた。9月4日頃だったか、3人ばかりがひっぱられ軍隊に引き渡され、夕方暗くなってから鉄砲で殺されるのを見た。後ろ手にゆわえられたまま川の中に飛び込むのを見た。このとき初めて、鉄砲の威力の恐ろしさを目の当たりに知った。」

 今、証言を紹介しましたが、ここまでは公的な資料、司法省であるとか軍隊であるとか公的な資料に載っている話なのです。でも、ここから先は、そういう公的な資料に一切載っていない話なのです。つまり証言でしか分からない話です。私はこれを集めようとしたんです。なぜか。とてもじゃないけど公的な資料だけでは全然足りない。もっともっと事件はあったはずだと思ったからです。具体的にいくつ紹介できるか分かりませんけど、紹介しようと思います。

 まず町田市鶴川の神社の話。この神社の鳥居は壊れていますが、関東大震災の時に壊れたということで、記念として壊れたまま残してあります。町田という場所では朝鮮人虐殺はなかった。
 町田で青木組という土木工事をやっているグループの若者がいて、青木保三さんという人です。その人が100人ぐらい朝鮮人を雇ってたんですね。関東大震災があって朝鮮人が暴動を起こしていると聞くわけです。だから青木さんたちは警察官を連れてきて、青木さんもピストルを持って、10人ぐらいで現場に乗りこむわけです。で、実際に乗りこんでみると、
「世間から噂された、朝鮮人の各地で起こった〈蜂起反乱〉状態とはおよそ反対で、彼らはあべこべに自分たちの命が危険状態にさらされていることを知って、『ぜひ食料だけは与えてくれ、そうすれば飯場に籠城して、決して外には出ないから、命だけは助けてもらいたい。』」
 その状態を見て、青木さんは町田の警察に報告して八王子に戻っていくわけですが、八王子の御殿峠まできたところ、武器を持ったものものしい一団と出会った。鶴川方面から八王子に来襲する朝鮮人の一団と、決戦しようと出動した警察官ならびに、八王子の民間の一部有志連中だった。そこで、さきの真相を話して、引き上げてもらった。だからこの人の連絡がもうちょっと遅れていたら、実際にこの連中が飯場に行って朝鮮人を襲っていたわけです。
 こういう直前の事件ていっぱいいっぱい有ったんです。朝鮮人がいたところでは必ず事件が起きた、あるいは事件が起きる直前だったと思ってまちがいない、というのがこの証言です。

 新宿、神楽坂の話。中島さんがこう言ってます。
「神楽坂警察署の前あたりは、ただ事とは思えない人だかりであった。突然トビ口を持った男が、トビ口を高く振りあげるや否や、力まかせに、つかまった2人のうち、一歩遅れていた方の男の頭めがけて降り降ろした。わたくしはあっと呼吸をのんだ。ゴツンと鈍い音がして、殴られた男は、よろよろと倒れかかった。ミネ打ちどころか、まともに刃先を頭に振りおろしたのである。ズブリと刃先が突き刺さったようで、わたくしはその音を聞くと思わず声を上げて、目をつぶってしまった。不思議なことに、その凶悪な犯行に対して、誰もとめようとしないのだ。」

 この写真は実際に神楽坂警察署が押収した凶器類ですが、半端な数じゃない。当時まだ刀剣の所持がほとんど黙認されていたので、家の中に有るんですね。トビ口もその一つだったと思います。

後半はこちら → http://madameeiffel.blog2.fc2.com/blog-entry-243.html

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ロックアクション講演会「関東大震災朝鮮人虐殺といま」文字起こし① 服部良一さん

「戦争あかん!ロックアクション」のブログより引用
http://himitsulock.hatenablog.com/entry/2017/12/03/053322



戦争あかん!ロックアクション講演会(2017.11.06)
「関東大震災朝鮮人虐殺といま」
~あの日、あの空の下、東京で何が起きていたのか?~


開会あいさつ 服部良一さん(ロックアクション共同代表)

 小池都知事が朝鮮人虐殺に追悼文を送らなかったということを知って、その背景を知りって考えてみようということで今日の企画になりました。朝鮮人虐殺については今から西崎さんの方から詳しく話されると思いますので、私は別の観点から一つだけ申し上げたい。

 関東大震災で殺されたのは朝鮮人だけでなく中国人、社会主義者も殺されました。私たち若いころは在日朝鮮人6000人と中国人600人が殺されたとずっと頭の中に記憶としてあるわけですが、実は中国人の場合は、今は750名の殺された人の名前が明らかになっている。これは隠しようのない事実でありまして、しかも、これは1923年の出来事ですが、当時中国政府が抗議をして、中国政府として全部名前を調べ上げたということがあるようです。 そしてその直後の閣議決定で2万元、今の日本円にしますと約50億円ぐらいになるらしいんですが、その補償を虐殺された人に支払うということを閣議決定したのですが、しかし中国侵略の過程で閣議決定は守られないまま、ほったらかしになってると、こういう事実もありまして、最近この中国人に対する追悼会がされるようになっています。ただ、主催者に確認をしてみましたら、小池都知事に追悼文を頼むということは今のところしていないということで、追悼文を巡ってどうという話は小池都知事との関係においては特にないわけですが、ちょっと補足的に付け加えておきます。

 もう一つは小池さんはこの後、希望の党を立ち上げるわけですね。ご存じかと思いますが、この希望の党として立候補する場合に公認を得るための誓約書というのがあって、これが「踏み絵」と言われてるわけです。その中に憲法改悪を認めるか否か、あるいは戦争法に賛成するか否かが「踏み絵」として言われたということは有名な話ですが、実はこの中に外国人参政権を認めるかいなかが踏み絵になっています。これ、非常に違和感を感じるのは、外国人参政権の問題というのは、10項目近い項目の中で、政治的な焦点になっている訳でもないのに、なぜいきなり外国人参政権を認めるか否かを「踏み絵」にしていくのかということが、非常に大きな違和感を感じるわけです。特に地方参政権については認めるべきだというのは、自民党の中でも議論がありましたし、今回(民進党の議員が)希望の党に大勢行かれましたが、民進党としても地方参政権は認めるべきだという意見だったので、これにサインした(民進党の)人たちはいったいどういう思いで希望に行かれたのかという思いはあります。

 一連の流れを考えてみますと、極めて排外主義的なやり方が表面化している。しかも国のリーダーを取ろうとしている人が、そういったことを「踏み絵」にして堂々とやっていくというのはけしからんなという思いです。そういったことも補足的に付け加えさせていただきましたけれども、歴史をきちんと認識していくということが、われわれが今後進んでいくうえで極めて大切だということが、みなさん共通の思いだと思います。

 今日は改めて関東大震災で何が起きたのか、これを皆さん方と一緒に、勉強してまた深めて行ければ幸いです。



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